プラモデルの展示、作り方解説、アイテム情報とか
 HOMEPhoto Report>This page

舞鶴引揚記念館
2007年10月21日 写真と文:管理人おまみ


明治時代以降日本有数の軍港として発展した京都府舞鶴市。
第二次世界大戦終結後は在外邦人が日本本土へ戻るための引揚港に指定され、昭和25年に他港が引き揚げを終了したあとも昭和33年まで主に中国大陸からの軍属・民間人、シベリア抑留者約66万人と約1万6千柱の遺骨を迎え入れました。

舞鶴引揚記念館はそうした引き揚げに関する資料を保管・展示する施設として、かつて引揚桟橋や舞鶴地方引揚援護局のあった場所を見下ろす丘陵地にある舞鶴引揚記念公園内に昭和63年(1988年)設立されました。



シベリア抑留
大戦末期、満州に侵攻したソ連軍によって多くの日本人が捕虜となり、敗戦後も数年間シベリアに抑留されて強制労働を科されました。そして劣悪な環境の下、帰国の夢を果たせずここで力尽きた人がたくさんいました。
このブースにはそれらの人々の所持品や衣類、手記などが展示されており、これが新天地を求めて大陸に渡った人たちの末路かと思うと見ていて結構きつかったです。





引き揚げ
『引き揚げ』とは戦前・戦中海外にいた日本人を終戦に伴い一気に帰国させる事業を指します。
戦後いくつか指定されていた引揚港はいずれも数年後にその役を解かれたため、帰国者の多くは舞鶴に集中することになりました。ここではその当時の記録や写真、引揚船の模型などが展示されていました。






岸壁の母
舞鶴港には引揚船が来るたびに岸壁や桟橋を訪れて、息子や夫の帰国を信じて何年間も待ち続ける婦人達の悲しい姿がありました。それが当時のマスコミによって報じられ、いつしか『岸壁の母』と呼ばれるようになりました。
昭和29年に菊池章子、昭和47年に二葉百合子の歌う『岸壁の母』が大ヒットし、さらに昭和51年には映画化されています。現在30〜40才以上なら歌える人も多いはず。
直接のモデルとなったのは当時東京都在住の端野いせさんという人でした。




引揚記念公園
引揚記念館のある引揚記念公園は昭和44年に完成しました。
舞鶴平湾が一望できる展望広場へと続く道沿いには桜やツツジが植樹されていますが、これらは当時舞鶴へ引き揚げてきた人々が作ったさまざまな会や団体からの献木でした。またこの歩道には備え付けのスピーカーから『岸壁の母』のメロディがエンドレスで流れていました。


かつて舞鶴地方引揚援護局のあった場所は現在木工団地になっており、引揚船が停泊していた港内も木材の貯木場と化しているので、当時の面影を残すのは数年前に復元された平引揚桟橋のみとなっています。



なお私の母親は東舞鶴で生まれ育ったにもかかわらず、当時の引き揚げの様子を『そんなこともやってるんだ』くらいな感覚でろくに覚えていないそうです。戦争体験で印象に残ってるのは配給で延々と並ばされるのが苦痛だったことくらいとか・・・
同じ時代を生きてきても人によって感じ方はさまざまなんだなあと思いました。


舞鶴引揚記念館
住所: 625-0133 京都府舞鶴市字平引揚記念公園内
TEL: 0773-68-0836 FAX: 0773-68-0370
開館時間: AM 9:00〜PM 5:30 (入館はPM 5:00まで)
休館日: 12月29日〜翌年1月3日
観覧料: 一般 300円(20人以上の団体は200円)、 小学生〜大学生 150円(20人以上の団体は100円)
無料駐車場あり(普通 車・大型バス)
公式ホームページ http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/

アクセス
公共機関:  JR東舞鶴駅から京都交通路線バス『三浜線』『田井・野原線』乗車、引揚記念公園前バス停下車。
あるいは舞鶴観光周遊バスで『引揚記念館バス停』下車。
車: 舞鶴若狭自動車道・舞鶴東IC→京都府道28号線→国道27号線→京都府道21号線を大浦半島方面へ。




舞鶴市周辺のホテル・旅館など宿泊先一覧


 ▲ このページの上へ
 HOMEPhoto Report>This page

メール 画像・文章の転載・二次使用について 掲載広告と免責事項
Copyright(C) Omami All right reserved